魏の年号「景初」を銘にもつ鏡は4面。
そのうち2面は「景初四年」という存在しない年号をもつ。
残る2面は「景初三年」の銘をもち、そのうち、近畿から出たのは和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)の画文帯神獣鏡である。
「景初三年」とは、卑弥呼が魏に朝貢して銅鏡をもらったとされる年である。
①三角縁神獣鏡は近畿を中心に出土する。
②三角縁神獣鏡には「景初三年」の銘をもつものがある。
③したがって、三角縁神獣鏡が卑弥呼が与えられた鏡であり、邪馬台国は近畿(奈良県)である。
以上が、邪馬台国畿内説の三段論法である。
しかし、肝心の「景初三年」銘をもった三角縁神獣鏡は奈良県でも近畿でもなく、鳥取県のものであり、近畿で「景初三年」銘をもった鏡は三角縁神獣鏡ではなく、しかも奈良県ではなく大阪府から出土しているのである。
なんだか、狐につままれたような話だ。
それはともかく、「大丹後展」で「青龍三年」鏡を見たのをきっかけに、「景初三年」鏡を出した和泉黄金塚古墳にも興味がわいた。
それで、行ってみることにした。
天王寺での仕事が終わった後、JR阪和線の北信太駅へ。
そこから2キロばかり歩く。
スマホのGPSで、とにかく再接近できる地点へ向かう。
最初は、交通量の多い道路を歩き、目を引く風景も、立ち止まる店も、興味深い寺社も、何もないところ。
やがて大通りから住宅地に入ると、ちょっとホッとした。
「クリーンセンター」と畑地の間の細い道を行く。
ここで、やっと立小便ができた。(ずっと我慢していた。スッとした)
野糞もできそうなポイントだ。
やがて視界が開けて、小さな丘陵が目に入る。
これが、黄金塚古墳のはずだ。
この古墳を訪れるにあたって調べてみると、つい最近、故:森浩一氏の『和泉黄金塚古墳と銅鏡』という本が出版されたことを知った。
まさにドンピシャリの本だ。
森浩一氏は、終戦直後、この黄金塚古墳の発掘に携わった第一人者だ。
読んで十分予習してから訪問しようか、となると訪問を先延ばしする必要があるが…
と考えたが、「現地を踏む」ことを優先した。
黄金塚古墳は、墳丘の長さ85m、後円部の径57m、後円部の高さ8m、の前方後円墳。
発掘調査のころ(終戦直後)の黄金塚古墳。↓
かつて読んだ本では、その後、中学生が喫煙して火事になり、木が燃えてしまったという。
だが、今は、ふたたび木が生えている。
考えてみれば、古墳は築造された当初は木など生えていない。
木がない状態のほうがオリジナルに近い外観で、歴史学的には貴重と言うべきなのだが。
ところで、周りは農耕地。個人の所有地だ。
誰もいなければ仕方なしに突っ切るところだが、近くに農家の方がおられたので、「立ち入ってもよいか」と承諾を得た。
というわけで、畦道を突っ切り、古墳へと向かう。
本当は、反対側に入口があるらしい。
どうしても、普通の人の逆から入ってしまうのが、わたしの宿命。運命なのだ。
草茫々の前方部から接近。
「前方後円墳」という名前からしたら、こちらのほうが「前方」で、正しい入口のはずだ。
このあたり、絶好の野糞ポイントだ。
(古墳=墓だけど)
草を掻き分け、接近。
フェンスがある。
「立ち入らないでください」とあるが、強引に入る。
墳丘の上に誰かいる。
すぐに立ち去った。
たぶん、向こう側からは簡単に出入りできるのだろう。
強引に入って、墳丘を登っていく。
草のせいで足元がよく見えないが、所々に長方形の窪みがあり、足をとられる。
発掘調査のときのトレンチがそのまま残されているのか?
後で本を読むと、戦時中、防空壕が掘られかけたという。その名残か?
やっと前方部の上に乗った。
墳丘上の草は丈が低い。
後円部に向かう。
なかなかいい場所だ。
後で知ったのだが、墳頂には3つの棺があったらしい。
「景初三年鏡」を伴っていたのは中央の棺(正確には槨)だ。
しかも、それは槨内棺外に置かれていた。棺内には他に銅鏡があったにも係わらず、である。
森氏は、生前、遺物を遺跡(遺構)から切り離して議論することの危険性を説かれていた。
また、考古学と文献学の安易な結合にも警鐘を鳴らされた。
わたし自身、「景初三年鏡」が出土したことは知っていても、その出土状況は知らなかった。
『魏志倭人伝』の卑弥呼の朝貢(景初二年or三年)との関連しか念頭になかった。
帰宅後、森氏の本を読んで、いろいろ勉強させてもらった次第。
碑には、末永雅雄氏や森浩一氏の名が見える。
森浩一氏は、戦後の考古学を牽引した学者の一人だ。
学閥の影響の強い考古学界にあって、良心的で、客観的・中立的な立場にいた人だ(そのため、日和見的・風見鶏的な面もある)。
ここで腰掛けて、持参した粕汁を飲んだ。
「景初三年鏡」は、もっぱら卑弥呼が魏に朝貢して授与された鏡として注目される。
しかし、この黄金塚古墳は4世紀後半ごろの築造であり、卑弥呼の時代より約150年ほど後なのである。
遺構(遺跡)を重視する以上、「景初三年鏡」こと画文帯神獣鏡は卑弥呼・邪馬台国とは関係がないことになる。
(それを、一般の考古学者は、埋められずに「伝世」した、と片付ける)
そもそも、本当に「景初三年」なのか?
第一字の「景」は、まぁいいとしよう。
第二字は、本当に「初」なのか?
「潰れていて読めない」というのが客観的だ。
こういうものを基準にして「邪馬台国=畿内」説が唱えられているのだ。
門外漢の人は、「邪馬台国=畿内」説には鏡以外にも色々と論拠があるのだろう、鏡は傍証の一つくらいだろう、と思われるかもしれない。
しかし、それは違う。
「邪馬台国=畿内」説は、ほとんど、この鏡の理論が中心的な論拠なのだ。
さて、後円部の南東には道がついている。
こちらが正規の出入口なのだろう。
とは言え、こちらにもフェンスがあり、一応、塞がれている。
フェンスの下の隙間から出る。
その後は農地と住宅地の間の道を通り、JR富木(とのき)駅まで歩いた。
黄金塚古墳は「景初三年鏡」ばかりが注目されるが、他にも銘文をもった銅鏡が複数 出土していることを知った。
銅鏡をもっと勉強しなければならない、と思った。
また、他の古墳にも興味がわいてきた。
よい刺激になった。
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