2016年1月5日火曜日

離宮八幡宮 -守護不入の石柱をもとめて-

2016年最初の「遊び」は、初詣である。
それも近場の神社に行けばイベント性が薄れる。
まだ行ったことがない神社の中で「どこがいいかな~」と考えていた。


ところで、昨年12月に「守護不入地」について、ちょっと調べていた。
室町時代、幕府権力を背景に守護が勢力を伸ばし、任国を領地のように支配し、「守護大名」とよばれるようになった。
しかし、そんな守護でも介入できない土地があった。
幕府が規制するわけである。
それが「守護不入地」(あるいは「守護使不入地」)だ。


Wikipediaで「守護使不入」を見ると、そこに「守護使不入」の石柱の写真が載っている。
兵庫県姫路市の如意輪寺のものだ。
なぜか、それに惹かれてしまい、これを見に行きたくなった。
が、他にも「守護不入」「守護使不入」の石柱や碑はないのだろうかと調べてみた。

すると、京都府大山崎町の離宮八幡宮にあることがわかった。(こういうのを検出できるのがネットのすごいところだ)

離宮八幡宮には行ったことがない。
初詣の場所が決まった。
 
  ×    ×    ×


1月2日、大阪で仕事をした後、いつもと違う経路で京都へ。
JR山崎駅で下車する。

JRは「山崎」、阪急は「大山崎」で、駅名が違うのが、紛らわしくいというか、区別しやすくて便利というか。


元旦ではないが、てっきり初詣客で駅と駅前がごった返しているかと思っていた。
神社までの道筋に屋台が並んでいるかと思っていた。
ところが、何にもなし。

その程度の知名度・人気度なのか、離宮八幡宮は。
ジャンクな焼きそばでも食べようかと思っていたが、お預けになってしまった。


東へ向かい、数十メートル緩い坂道を下る。
広い道と交差する、その角っこに、いきなり離宮八幡宮の門。
その「こじんまり感」に驚いた。

しかし、この門は脇門。やはり正門から入るのがスジだろう。

ぐるっと廻って、正門から入る。

境内は思っていたよりも狭い。
明治以降、社域が縮小されたというが、それでも歴史に名のしれた神社なのだから、もっと堂々たる境内かと思っていた。

境内にはテントが設置されていた。
おそらく昨日の元旦には御神酒の振る舞いなどがあったのか?

現在、淀川の対岸に石清水八幡宮が鎮座しているが、もともと「石清水八幡宮」と呼ばれていたのは、ここだった。

大安寺の僧行教が山崎淀川の港)で神降山に霊光を見、その地より石清水湧いたのを見た。
そのことを清和天皇に奏上したところ、国家鎮護のため勅命により「石清水八幡宮」が建立された、という

が、その後、なぜか「石清水八幡宮」は淀川の東岸の男山に移された。

西岸のこの地は、もともと嵯峨天皇の「河陽宮」という離宮の跡地でもあったので、「離宮八幡宮」と名が改められた、という。

だったら、「河陽宮」から清水が湧いた、という話になるのが自然だと思うが…
それに、現在の「石清水八幡宮」は「清水」は関係なかったのか。
てっきり、男山に清水が湧いていたのだと思っていたが。
なんだか、狐につままれたような話だ。


受験日本史では、そのような縁起は登場しない。
中世の座の代表例として「大山崎油座」があげられ、離宮八幡宮の神人(じにん)らが油の製造・販売をしていた、ということで登場する。

貞観年間に神官が夢で「長木」(てこを応用した搾油器)を見て、実際に作成荏胡麻(えごま)製造が始まった、という。
貞観年間といえば清和天皇の時代だから、建立された直後のことだ。



「油祖」の像が作られているが、この「油祖」って誰なのか?
搾油器をつくった神官のことなのか?
この像はいつ作られたのか?


本殿に詣でる。

境内にはいくつもの摂社が祀られている。

しかし、目当ての「守護不入」がない。
なんかの情報間違いだったのか?

もう一度、ネット情報を確認する。

「守護不入」の石柱は確かに存在する。
それを紹介しているサイトのとおりに歩くことにする。
ということは、結局、北側の脇門から入りなおすことになる。
(このように、一般の人と逆に回ってしまうのは、わたしの宿命だ)

順を追って見ていく。
「境内案内図」も見当たらない。

灯篭が並んでいる。
一つ一つ文字を読んでいくが、どれも「守護不入」ではない。

こんなに探さなくても、もっと目立つはずなのだ。
「この灯篭が目に入るはず」とサイトに書いてある、その灯篭も見当たらない。
「この神馬の像が目に入るはず」とある像も、ぜんぜん見当たらない。
再び狐につままれたようだ。


ひょっとして!と閃いて、テントの裏側をのぞいてみた。
そしたら、あった! 神馬の像が。

それを向こうの、塀とテントの間の狭い空間を通り抜けていくと、大きな灯篭と「殺生禁断所」の石柱が。

近いぞ!
「殺生禁断所」の石柱の裏手にまわると…
あった! 「守護不」の文字が。

ただでさえ、灯篭と木に挟まれているのに、そこに倉庫とテントがあり、とても見にくいアングルだ。
正面からちゃんと見ることができない。
腕を伸ばしてシャッターを切るのみ。
なので、写真が傾く。

やれやれ。
やっと実見することができた。


しかし、もののサイトによると、この石柱は江戸時代に建てられたものらしい。
「守護」というのは鎌倉・室町時代のもので、江戸時代には存在していない。
大名のことを古風に「中世」と言ってみたのか?

だが、近世権力というのは社寺も支配下においていて、こんな「アジール」は認めないはずだが…
そのあたりの事情を詳しく知りたい。
ネット情報が正しいのかどうかもという検証も含めて、今後勉強していきたい。


帰路につく。
山崎駅のホームからは、対岸の「石清水八幡宮」のある男山が見えている。

数十分ほどの、小さな旅だった。

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