2015年12月29日火曜日

三輪山へ(4) 登拝(後編)


三輪山に登っている。
行程の半分くらいまで来た。


三輪山に関する神話は、段階のちがう話がいくつかある。


まずは、『古事記』の崇神天皇の条。
活玉依毘売(いくたまよりひめ)に「麗美しき壮夫」が夜中に通ってくるようになった。
まもなく女は妊娠する。
女とその両親は、相手が何処の誰なのかを知るために、男がやってきた時に衣に糸を通す。
糸を辿っていくと、三輪山の神の社に至った。
それで男が三輪山の神(大物主大神)だということがわかった。(以上を仮にA譚とよぶことにする)


その後、疫病が流行し、多くの人民が死んだ。
崇神天皇が愁い嘆いていると、夢に大物主大神が現れ、「オオタタネコ(意富多多泥古)に我を祭らせよ」と告げる。
天皇が四方に使を派遣して、オオタタネコを探した結果、河内の美努村で発見された。
オオタタネコが言うには、大物主大神の4代目の子孫であった(活玉依毘売が生んだ子を1代目と数える)。
(以上をB譚とする)

『日本書紀』でも、三輪山の神と姫との婚姻譚だが、少し異なっている。
女性の名は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)。
やはり女のもとに男が通ってくる。

「昼に来ないので、顔を見ることができない。明朝に顔を見せてほしい」
と、女が懇願する。
「わかった。明朝、あなたの櫛箱に入っていよう。わたしの姿を見ても驚かないでほしい」
と、男は答える。


明朝、女が櫛箱の中を見てみると、そこには小さな蛇がいた。
女は驚いて声を出してしまった。
蛇は男の姿となって、
「あなたはわたしを羞しめた。わたしもあなたを羞しめよう」
と言い、三輪山へ登っていった。

女がドスンと座ると、女陰を箸で点いて死んでしまった。(以上をC譚とする)

『日本書紀』の話が『古事記』のそれと大きく異なるのは、その順序だ。
オオタタネコを捜索・発見して大物主大神の祭祀をさせるのは、C譚よりも前である。


やはり、疫病が流行した。
大物主大神が天皇の夢に現れて、「オオタタネコに自分を祭らせよ」というのは同じ。
オオタタネコが発見されるのは、茅渟県の陶邑だった。
ここではオオタタネコは大物主神の子(活玉依媛との間の子)ということになっている。
(以上をD譚とする)

大物主神を、完全な人間型の神とするA譚(古事記)と、蛇を正体とするC譚(日本書紀)とでは、神話としてC譚のほうが古形だろう。


しかし、だ。
D譚(日本書紀)に出てくる陶邑は、須恵器の生産で有名なところ。
実際、三輪山の周辺からはその地方と共通する須恵器が多く出土しているらしく、関係が深いとされているが、須恵器というのは朝鮮半島から製法が伝わった土器で、5世紀中頃以降のものだ。
つまり、結構、新しい。
するとD譚の後であるC譚も、5世紀中頃以降(むしろ6世紀)の話になってしまい、「蛇が人間の男に姿を変えて女に通う」という世界観がややそぐわない。

A譚だと、オオタタネコを崇神天皇と同時代(4世紀前半?)とすると、大物主神と女の婚姻が5世代前とする2~3世紀となって、神話の世界として違和感がない。

三輪山の麓は、ヤマト政権の発祥地のように言われる。

しかし、D譚で大物主神が、
「我はこれ、倭国の域の内に所居る神、名を大物主神と為す」
と名乗らなければならないほど、ヤマト政権の大王(天皇)たちは現地の神々に疎い。
発祥地の神でありながら、大王自身ではなく、配下の豪族に祭祀をさせ、自身は伊勢の神を祀るというのも変な話だ。


和田萃氏は「三輪山の祭祀をめぐって」の中で、ヤマト政権の大王が祭祀をおこなっていた時代と三輪君(オオタタネコの子孫)が祭祀をおこなっていた時代の2段階があった、とされている(『三輪山の神々』、学生社、2003年)
しかし、「ヤマト政権の大王が祭祀をおこなっていた時代」というのは文献上の証拠がない。
記紀では、ヤマト政権の大王は三輪山の神と祭祀のことを、何も把握していない。


わたしはヤマト政権はこの地域に自生した権力ではないと考えるが、この三輪山神話をみてもヤマト政権の大王たちが「よそ者」だったことがうかがえる。


    ×   ×   ×


わたし自身は、ヤマト政権や天皇制との関わりで三輪山・大神神社に興味をもっているのではない。
旧石器・縄文時代以来の巨石信仰・山岳信仰、あるいはアニミズムの伝統をのこすものとして関心をもっている。

登っていくと、「⑥烏さんしょう」。
カラスサンショウの大木が生えている林だ。
このあたりまで来ると、空が近くなって明るくなる。


「⑦こもれび坂」
巨木が倒れていた。
平成10年の台風で樹齢200年・300年といった巨木が何本も倒れ、それまで薄暗かった森が明るくなったのだそうだ(道筋も変わったらしい)。


さて、いよいよ頂上部分である。
道がほとんど平坦に近くなったと思ったら、「⑧やしろ前」。
囲いがしてあり、社殿がある。


その脇を通るとき、リスが走って逃げた。
すぐ近くまでわたしの接近をゆるしてくれたことが嬉しい。


そして、ついに「⑨奥津いわくら」。
磐座があり、囲いがしてある。

撮影は禁止だが、ネットで検索すると、何人かが不法に撮影していた。
その写真を、これまた不法に転載する。↓

しかし、天気の良い日だったからか、実際にはもっと明るい雰囲気だった。

また、『三輪山と日本古代史』(学生社)に磐座のスケッチが乗っていたので、それも転載しておこう。

スケッチが許されるなら、わたしもスケッチをすればよかった。


わたしが到着した時、若い女性と年輩の男性がいた。
男性は常連らしく、女性にいろいろと解説をしていた。
「もう一箇所、誰も知らない秘密の磐座がある。案内してあげよう」
と、男性が言っていた。

「おいおい、登拝道以外に踏み入ったら駄目なんじゃないのか?」
「熱心な常連みずからが、神域を侵犯していいのか?」
とも思ったが、「行っていいのなら、わたしも一緒に連れて行ってもらおう」と思った。


が、靴紐を結びなおしている間に、その男性と女性は先に出発いてしまい、後を追いかけるように下ったが、もうどこにも姿は見えなかった。
まさに「神隠し」のようだった。


下山時は、次から次へと登ってくる人とすれ違った。
こんなにメジャーだったことに驚く。


12時35分、狭井神社に戻ってくる。
2時間弱の行程だった。

三島由紀夫が言ったように、たしかに「清明」で「すがすがしい」雰囲気を感じることができた。
しかし、と思う。
本来なら、三輪山だけが特別なのではないはずだ。
どこの山だって、同様に神の住みらもう聖域だったはずだ。
いや、今でも、そのはずだ。

それなのに、そこらの山々は、破壊され、汚され、冒瀆されている。
地元の大文字山と比べた時、三輪山をうらやましく思う。



最後に、国土地理院の地図には、三輪山の南斜面や東斜面にも何本もの登山道が記されている。
そちらからでも登れるのか?
今後の課題としよう。

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