2015年12月31日木曜日

終わりよければ

先日、大文字山で財布を失くした。

失くしたというか、置いておいたのを盗られたのだ。
はじめは警察に届けてくれると思っていたが、その気配がない。
カード類の不正使用もない。


…となると、財布から現金だけ抜き取って、財布がそこらへんに捨てられているのではないか?
藪の中に財布が投げ出されたままになっているのではないか。

仕事が一段落した日、もう一度、大文字山を捜索することにした。
さいわい、捜索範囲はそれほど広くない。


その人物が右利きだと仮定すると、財布を左手に持って、右手で紙幣を抜き取るだろう。
そうすると、左手に持った財布を自分の左側に投げる。
その人物は下山中だったから、「下を向いて左側」だ。


で、探したのだが、やっぱりない。

想定が間違っていたのか。
左利きなのか? 
右側の斜面も探すことにした。


ま、結果から言うと、なかった。

だが、比較的最近に捨てられたゴミを見つけた。
コンビニのおにぎりの包みが散乱している。
「やれやれ…」と拾っていた。


…と、そこに!

ナメコだ!

大文字山でナメコ!
じつは先日来、それらしいのを見たが、確証がなく慎重になっていた。
しかし、これは正真正銘のナメコだ。

こんなお膝元にナメコがあるなんて!

何かに齧られた痕がある。

まだこれから成長しそうな幼菌もある。

ナメコが収穫できたことも、もちろん嬉しいが、それ以上の喜びがあった。

近年、ナラ枯れ、伐採、鹿の食害、治山工事…と大文字山の自然環境が劣化していく一方だった。
かつて存在した山菜やキノコが姿を消す一方だった。


そんな中で、大文字山にナメコである。
「わたしの知らない大文字山が、まだあったんだ」
ということが驚きであり、喜びである。



ゴミ拾いのお返しだろう。
財布を失くして気を落としているわたしを、大文字山が慰めようとしてプレゼントしてくれたのだろう。

いろいろあった一年だが、終わりがよければ満足できる。

2015年12月30日水曜日

三輪山へ(5) 水・酒・そうめん他

三輪山に登った。

背中のリュックにはノートPCなどが入っていて、なかなか重たかった。
ところが、下山してきて狭井神社に戻り、襷(たすき)を返した後、コインロッカーがあることに気がついた。

登る前に神社の女性がいろいろと説明してくれたが、なんでコインロッカーがあることを教えてくれなかったのか。
(申し込みの窓口からは見えない所にコインロッカーはあった)

やっぱり奈良県。

ところで、狭井神社は霊泉で有名らしい。
水を汲めるようになっている。

飲めるようにカップも常備されている。

わたしも飲んだ。
「甘い」と思った。
たしかに旨い水だった。


水琴窟もあった。

後で、復習してみると、「薬井戸」というのがあったらしい。
「霊泉」と銘打った水汲み場と水琴窟に目を奪われて、薬井戸というのを確認していなかった。



狭井神社から出て、大神神社からも出て、「大美和の杜 展望台」という所に行ってみた。
道を工事中だった。

向こうから夫婦がやってきて、「工事中で、行けませんよ」と教えてくれる。
「行けないのに、その事をちゃんと掲示していないのか。やっぱり奈良だ!」
と思ったが、「とりあえず、行ってみよう」と突き進むと、普通に入れた。
作業中の場所に入れない、というだけのことだった。


ちょっとした丘へ。(古墳じゃないんであろうな)
展望台から振り向くと、三輪山。
西のほうには大鳥居、そして耳成山と畝傍山(?)。

さらにその北に目をやると二上山。

二上山には近いうちに登ってみようと思っている。


展望台には、どんな山が見えるか書いてある。

しかし、土地勘のない他所者にはどれがどの山か分からないものが多い。
普通、こういうところには横長の写真版などで示してあるものだが・・・。


この展望台は「恋人の聖地」なのだそうだ。

よく分からん。


展望台を下って久延彦神社へ。

階段を下りて、その途中に休憩所がある。
テラスの奥に、景色を説明する写真版がある。

テラスの先に行っても、写真にあるような景色は望めない。
先ほどの見晴らしのよかった展望台になくて、逆に見えない場所に写真の説明版がある。
こういうチグハグが奈良県。
しかも、「左 大神神社」「右 二の鳥居」とあるが、「左」が右に、「右」が左に書いてある。
なんでこんな示し方をするのか?
こういうチグハグが奈良県。
奈良県の人はこういうのに何も違和感を覚えないのか?
よくこういうので精神的に平穏な生活が遅れるものだ。


久延彦神社を出る。

知らなかったが、三輪山の麓が日本の酒の発祥地らしい。
三輪山は古来から「三諸山(みむろやま)」と呼ばれ、「うま酒みむろの山」と称される
「みむろ」は「実醪」すなわち「酒のもと」の意味であるという。
そうなると、酒を買わないわけにはいかなくなるでしょ。
門前の今西酒造に入る。
三輪山の伏流水で酒を作っている老舗のようだ。
いろいろ試飲して、「三諸杉」を買った。



さて、最後のイベントは食べることだ。
三輪といえば「三輪そうめん」。
わたしは無類の麺類好きなのだが、なぜか「そうめん」だけは食指が動かない。
しかし、せっかくだから…と、三輪に来る前から食べることに決めていた。
ふだん食べている「そうめん」が何だったのか?と思うくらい、劇的においしい「そうめん」に出会えるかもしれない。

何軒か店があったが、駅前の商店街の店で食べることにした。

こんな店が目にとまった。

ところが、そのすぐ隣に、こんな商品陳列がある。

集客に努力している垢抜けた左の店か、じつに地元志向の庶民情緒のある右の店か、迷いに迷って左の店に入ろうと決めた。
で、入ろうとすると、右の店から人が出てきて、店内に招き入れられた。

何のことはない、左の店のものだと思ったディスプレイは、何と右の店のものだった。
そんなアホな…
このチグハグさが、奈良県ならでは。


もちろん、にゅうめんを注文。


やはり、どうと言うことはない、ふだん食べているのと同じ、そうめん。
これで800円か850円。



次の電車まで、20分強。
店や駅で時間をつぶす方法もないので、もう一観光することにした。

酒造りの神、さきほどの活日を祀った祭った活日神社に行っていなかった。
大神神社の摂社だ。

もう一度、大神神社へ戻る。

『日本書紀』によると、崇神天皇が高橋邑の活日(いくひ)という人物を「掌酒」(神に奉る酒を管掌する人)に任命した。
活日が天皇に酒を献上し、

 この神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久


と歌を詠んだ。そして、官人たちと酒宴をもったとある。
活日は、杜氏の祖として、酒造関係の人の信仰を集めている。


さて、活日神社の場所は、ここだ(地図中の⑭)。

参集殿と祈祷殿の間に階段があるように書かれているが、そこがどことつながっているのか、この図では不明だ。

行ってみると、参集殿と祈祷殿を結ぶ渡廊下の下をくぐって道があるようだった。
(その道自体、仮設スロープが作られているせいで非常に分かりにくかった)

ただし、工事の関係上、ここからは入れないと立看板で封鎖されていた。
「活日神社へは祈祷殿前を通ってご参拝ください」と書いてある。
くすりの道の方から廻らなければならないようだ。


で、再び くすりの道を進んだのだが、活日神社に行く分岐のところに、また立看板がある。
「あれー? ここから入れるんじゃなかったのか?? これとは別の通路があるのか???」
地図を見直し、現地を観察しても、わからない。
電車の時刻が迫る。

おかしいな?と思いながらも、とりあえず分岐まで行ってみた。
そしたら、「通行止め」。ただし、「活日神社の参拝できます」。

ああ、わかりづらい。
なんで、奈良はこんなに案内が下手なんだ。


活日神社は、写真で見たのと違って、真新しく再建されていた。

酒造関係者の寄進によるのだろう。
酒まつり等で舞われる神楽「うま酒みわの舞」は、活日が詠んだ歌に作曲作舞したものだという。
神楽「うま酒みわの舞」を知らないので、見てみたいものだ。

時間を食ってしまった。
ダッシュして三輪駅へ。
14:03発の電車に何とか間に合った。


試飲でほろ酔いして、大阪の職場へ。

2015年12月29日火曜日

三輪山へ(4) 登拝(後編)


三輪山に登っている。
行程の半分くらいまで来た。


三輪山に関する神話は、段階のちがう話がいくつかある。


まずは、『古事記』の崇神天皇の条。
活玉依毘売(いくたまよりひめ)に「麗美しき壮夫」が夜中に通ってくるようになった。
まもなく女は妊娠する。
女とその両親は、相手が何処の誰なのかを知るために、男がやってきた時に衣に糸を通す。
糸を辿っていくと、三輪山の神の社に至った。
それで男が三輪山の神(大物主大神)だということがわかった。(以上を仮にA譚とよぶことにする)


その後、疫病が流行し、多くの人民が死んだ。
崇神天皇が愁い嘆いていると、夢に大物主大神が現れ、「オオタタネコ(意富多多泥古)に我を祭らせよ」と告げる。
天皇が四方に使を派遣して、オオタタネコを探した結果、河内の美努村で発見された。
オオタタネコが言うには、大物主大神の4代目の子孫であった(活玉依毘売が生んだ子を1代目と数える)。
(以上をB譚とする)

『日本書紀』でも、三輪山の神と姫との婚姻譚だが、少し異なっている。
女性の名は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)。
やはり女のもとに男が通ってくる。

「昼に来ないので、顔を見ることができない。明朝に顔を見せてほしい」
と、女が懇願する。
「わかった。明朝、あなたの櫛箱に入っていよう。わたしの姿を見ても驚かないでほしい」
と、男は答える。


明朝、女が櫛箱の中を見てみると、そこには小さな蛇がいた。
女は驚いて声を出してしまった。
蛇は男の姿となって、
「あなたはわたしを羞しめた。わたしもあなたを羞しめよう」
と言い、三輪山へ登っていった。

女がドスンと座ると、女陰を箸で点いて死んでしまった。(以上をC譚とする)

『日本書紀』の話が『古事記』のそれと大きく異なるのは、その順序だ。
オオタタネコを捜索・発見して大物主大神の祭祀をさせるのは、C譚よりも前である。


やはり、疫病が流行した。
大物主大神が天皇の夢に現れて、「オオタタネコに自分を祭らせよ」というのは同じ。
オオタタネコが発見されるのは、茅渟県の陶邑だった。
ここではオオタタネコは大物主神の子(活玉依媛との間の子)ということになっている。
(以上をD譚とする)

大物主神を、完全な人間型の神とするA譚(古事記)と、蛇を正体とするC譚(日本書紀)とでは、神話としてC譚のほうが古形だろう。


しかし、だ。
D譚(日本書紀)に出てくる陶邑は、須恵器の生産で有名なところ。
実際、三輪山の周辺からはその地方と共通する須恵器が多く出土しているらしく、関係が深いとされているが、須恵器というのは朝鮮半島から製法が伝わった土器で、5世紀中頃以降のものだ。
つまり、結構、新しい。
するとD譚の後であるC譚も、5世紀中頃以降(むしろ6世紀)の話になってしまい、「蛇が人間の男に姿を変えて女に通う」という世界観がややそぐわない。

A譚だと、オオタタネコを崇神天皇と同時代(4世紀前半?)とすると、大物主神と女の婚姻が5世代前とする2~3世紀となって、神話の世界として違和感がない。

三輪山の麓は、ヤマト政権の発祥地のように言われる。

しかし、D譚で大物主神が、
「我はこれ、倭国の域の内に所居る神、名を大物主神と為す」
と名乗らなければならないほど、ヤマト政権の大王(天皇)たちは現地の神々に疎い。
発祥地の神でありながら、大王自身ではなく、配下の豪族に祭祀をさせ、自身は伊勢の神を祀るというのも変な話だ。


和田萃氏は「三輪山の祭祀をめぐって」の中で、ヤマト政権の大王が祭祀をおこなっていた時代と三輪君(オオタタネコの子孫)が祭祀をおこなっていた時代の2段階があった、とされている(『三輪山の神々』、学生社、2003年)
しかし、「ヤマト政権の大王が祭祀をおこなっていた時代」というのは文献上の証拠がない。
記紀では、ヤマト政権の大王は三輪山の神と祭祀のことを、何も把握していない。


わたしはヤマト政権はこの地域に自生した権力ではないと考えるが、この三輪山神話をみてもヤマト政権の大王たちが「よそ者」だったことがうかがえる。


    ×   ×   ×


わたし自身は、ヤマト政権や天皇制との関わりで三輪山・大神神社に興味をもっているのではない。
旧石器・縄文時代以来の巨石信仰・山岳信仰、あるいはアニミズムの伝統をのこすものとして関心をもっている。

登っていくと、「⑥烏さんしょう」。
カラスサンショウの大木が生えている林だ。
このあたりまで来ると、空が近くなって明るくなる。


「⑦こもれび坂」
巨木が倒れていた。
平成10年の台風で樹齢200年・300年といった巨木が何本も倒れ、それまで薄暗かった森が明るくなったのだそうだ(道筋も変わったらしい)。


さて、いよいよ頂上部分である。
道がほとんど平坦に近くなったと思ったら、「⑧やしろ前」。
囲いがしてあり、社殿がある。


その脇を通るとき、リスが走って逃げた。
すぐ近くまでわたしの接近をゆるしてくれたことが嬉しい。


そして、ついに「⑨奥津いわくら」。
磐座があり、囲いがしてある。

撮影は禁止だが、ネットで検索すると、何人かが不法に撮影していた。
その写真を、これまた不法に転載する。↓

しかし、天気の良い日だったからか、実際にはもっと明るい雰囲気だった。

また、『三輪山と日本古代史』(学生社)に磐座のスケッチが乗っていたので、それも転載しておこう。

スケッチが許されるなら、わたしもスケッチをすればよかった。


わたしが到着した時、若い女性と年輩の男性がいた。
男性は常連らしく、女性にいろいろと解説をしていた。
「もう一箇所、誰も知らない秘密の磐座がある。案内してあげよう」
と、男性が言っていた。

「おいおい、登拝道以外に踏み入ったら駄目なんじゃないのか?」
「熱心な常連みずからが、神域を侵犯していいのか?」
とも思ったが、「行っていいのなら、わたしも一緒に連れて行ってもらおう」と思った。


が、靴紐を結びなおしている間に、その男性と女性は先に出発いてしまい、後を追いかけるように下ったが、もうどこにも姿は見えなかった。
まさに「神隠し」のようだった。


下山時は、次から次へと登ってくる人とすれ違った。
こんなにメジャーだったことに驚く。


12時35分、狭井神社に戻ってくる。
2時間弱の行程だった。

三島由紀夫が言ったように、たしかに「清明」で「すがすがしい」雰囲気を感じることができた。
しかし、と思う。
本来なら、三輪山だけが特別なのではないはずだ。
どこの山だって、同様に神の住みらもう聖域だったはずだ。
いや、今でも、そのはずだ。

それなのに、そこらの山々は、破壊され、汚され、冒瀆されている。
地元の大文字山と比べた時、三輪山をうらやましく思う。



最後に、国土地理院の地図には、三輪山の南斜面や東斜面にも何本もの登山道が記されている。
そちらからでも登れるのか?
今後の課題としよう。