2016年1月10日日曜日

和泉黄金塚古墳を訪ねた

魏の年号「景初」を銘にもつ鏡は4面。
そのうち2面は「景初四年」という存在しない年号をもつ。

残る2面は「景初三年」の銘をもち、そのうち、近畿から出たのは和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)の画文帯神獣鏡である。

「景初三年」とは、卑弥呼が魏に朝貢して銅鏡をもらったとされる年である。
①三角縁神獣鏡は近畿を中心に出土する。
②三角縁神獣鏡には「景初三年」の銘をもつものがある。
③したがって、三角縁神獣鏡が卑弥呼が与えられた鏡であり、邪馬台国は近畿(奈良県)である。
以上が、邪馬台国畿内説の三段論法である。


しかし、肝心の「景初三年」銘をもった三角縁神獣鏡は奈良県でも近畿でもなく、鳥取県のものであり、近畿で「景初三年」銘をもった鏡は三角縁神獣鏡ではなく、しかも奈良県ではなく大阪府から出土しているのである。
なんだか、狐につままれたような話だ。


それはともかく、「大丹後展」で「青龍三年」鏡を見たのをきっかけに、「景初三年」鏡を出した和泉黄金塚古墳にも興味がわいた。
それで、行ってみることにした。




天王寺での仕事が終わった後、JR阪和線の北信太駅へ。
そこから2キロばかり歩く。
スマホのGPSで、とにかく再接近できる地点へ向かう。


最初は、交通量の多い道路を歩き、目を引く風景も、立ち止まる店も、興味深い寺社も、何もないところ。
やがて大通りから住宅地に入ると、ちょっとホッとした。
「クリーンセンター」と畑地の間の細い道を行く。

ここで、やっと立小便ができた。(ずっと我慢していた。スッとした)
野糞もできそうなポイントだ。


やがて視界が開けて、小さな丘陵が目に入る。
これが、黄金塚古墳のはずだ。

この古墳を訪れるにあたって調べてみると、つい最近、故:森浩一氏の『和泉黄金塚古墳と銅鏡』という本が出版されたことを知った。
まさにドンピシャリの本だ。
森浩一氏は、終戦直後、この黄金塚古墳の発掘に携わった第一人者だ。

読んで十分予習してから訪問しようか、となると訪問を先延ばしする必要があるが…
と考えたが、「現地を踏む」ことを優先した。

黄金塚古墳は、墳丘の長さ85m、後円部の径57m、後円部の高さ8m、の前方後円墳。

発掘調査のころ(終戦直後)の黄金塚古墳。↓


かつて読んだ本では、その後、中学生が喫煙して火事になり、木が燃えてしまったという。
だが、今は、ふたたび木が生えている。

考えてみれば、古墳は築造された当初は木など生えていない。
木がない状態のほうがオリジナルに近い外観で、歴史学的には貴重と言うべきなのだが。


ところで、周りは農耕地。個人の所有地だ。
誰もいなければ仕方なしに突っ切るところだが、近くに農家の方がおられたので、「立ち入ってもよいか」と承諾を得た。


というわけで、畦道を突っ切り、古墳へと向かう。

本当は、反対側に入口があるらしい。
どうしても、普通の人の逆から入ってしまうのが、わたしの宿命。運命なのだ。


草茫々の前方部から接近。

「前方後円墳」という名前からしたら、こちらのほうが「前方」で、正しい入口のはずだ。

このあたり、絶好の野糞ポイントだ。
(古墳=墓だけど)


草を掻き分け、接近。
フェンスがある。
「立ち入らないでください」とあるが、強引に入る。


墳丘の上に誰かいる。
すぐに立ち去った。
たぶん、向こう側からは簡単に出入りできるのだろう。


強引に入って、墳丘を登っていく。
草のせいで足元がよく見えないが、所々に長方形の窪みがあり、足をとられる。
発掘調査のときのトレンチがそのまま残されているのか?

後で本を読むと、戦時中、防空壕が掘られかけたという。その名残か?


やっと前方部の上に乗った。

墳丘上の草は丈が低い。
後円部に向かう。
なかなかいい場所だ。


後で知ったのだが、墳頂には3つの棺があったらしい。
「景初三年鏡」を伴っていたのは中央の棺(正確には槨)だ。
しかも、それは槨内棺外に置かれていた。棺内には他に銅鏡があったにも係わらず、である。

森氏は、生前、遺物を遺跡(遺構)から切り離して議論することの危険性を説かれていた。
また、考古学と文献学の安易な結合にも警鐘を鳴らされた。
わたし自身、「景初三年鏡」が出土したことは知っていても、その出土状況は知らなかった。
『魏志倭人伝』の卑弥呼の朝貢(景初二年or三年)との関連しか念頭になかった。
帰宅後、森氏の本を読んで、いろいろ勉強させてもらった次第。



碑には、末永雅雄氏や森浩一氏の名が見える。

森浩一氏は、戦後の考古学を牽引した学者の一人だ。
学閥の影響の強い考古学界にあって、良心的で、客観的・中立的な立場にいた人だ(そのため、日和見的・風見鶏的な面もある)。

ここで腰掛けて、持参した粕汁を飲んだ。


「景初三年鏡」は、もっぱら卑弥呼が魏に朝貢して授与された鏡として注目される。
しかし、この黄金塚古墳は4世紀後半ごろの築造であり、卑弥呼の時代より約150年ほど後なのである。
遺構(遺跡)を重視する以上、「景初三年鏡」こと画文帯神獣鏡は卑弥呼・邪馬台国とは関係がないことになる。
(それを、一般の考古学者は、埋められずに「伝世」した、と片付ける)


そもそも、本当に「景初三年」なのか?

第一字の「景」は、まぁいいとしよう。
第二字は、本当に「初」なのか? 
「潰れていて読めない」というのが客観的だ。

こういうものを基準にして「邪馬台国=畿内」説が唱えられているのだ。
門外漢の人は、「邪馬台国=畿内」説には鏡以外にも色々と論拠があるのだろう、鏡は傍証の一つくらいだろう、と思われるかもしれない。

しかし、それは違う。
「邪馬台国=畿内」説は、ほとんど、この鏡の理論が中心的な論拠なのだ。



さて、後円部の南東には道がついている。

こちらが正規の出入口なのだろう。

とは言え、こちらにもフェンスがあり、一応、塞がれている。
フェンスの下の隙間から出る。

その後は農地と住宅地の間の道を通り、JR富木(とのき)駅まで歩いた。


黄金塚古墳は「景初三年鏡」ばかりが注目されるが、他にも銘文をもった銅鏡が複数 出土していることを知った。
銅鏡をもっと勉強しなければならない、と思った。
また、他の古墳にも興味がわいてきた。
よい刺激になった。

2016年1月7日木曜日

大丹後展の「青龍三年」鏡

2015年の年末に京都文化博物館の「大丹後展」を見に行った。
目的はただ一つ、「青龍三年銘方格規矩四神鏡」を実見することである。
いわゆる「邪馬台国」(じつは「邪馬壱国」)問題に関係する鏡である。
この鏡がもつ意義を説明するには長い叙述が必要となる。


まず、『魏志倭人伝』には、女王卑弥呼が魏に朝貢し、魏の明帝から「親魏倭王」の称号と夥しい宝物を下賜されている。
その年は「景初二年」(238年)と書いてあるのだが、通常は(さしたる根拠もなしに)「景初三年」(239年)の誤りだとする。


卑弥呼が授与された宝物の中に「銅鏡百枚」がある。
多くの考古学者は、この銅鏡を「三角縁神獣鏡」に当てる。
「三角縁神獣鏡」は日本各地から数百枚も出土している。

その「三角縁神獣鏡」の中に「景初三年」の紀年銘をもつものがあるのである。
また、「景初三年」の翌年の「正始元年」の紀年銘をもつものもある(ただし、「正」は欠けていて判読不能)。
これこそ「三角縁神獣鏡」が魏の鏡である証拠とされた。

そして、それが近畿地方に多いことから、「邪馬台国=畿内」説の有力な根拠とされた。
卑弥呼は同鏡を全国の配下に配布したというわけである。



これには諸々の問題点がある。

①本当に「景初二年」は「景初三年」の誤りなのか?
②「三角縁神獣鏡」は日本からは既に500面以上が出土しているのに、本場のはずの中国からは1面も出土していない。本当に中国の鏡なのか?
③「景初三年」は3世紀前半であり、いまだ弥生時代である。しかし、「三角縁神獣鏡」は古墳時代の古墳からしか出土しない。本当に3世紀の鏡なのか?
…などなどである。

これらの理由(および他の理由も含めて)から「三角縁神獣鏡=国産」説が提起された。


これについて考古学者は、
②に対しては中国(魏)が日本のために日本人好みの鏡を特別に鋳造したのだ(特鋳説)、
③に対しては弥生時代には墓に埋葬せず、地上で伝え、古墳時代(4世紀以降)になってから埋葬し始めたのだ(伝世理論)、
と答え、中国鏡・魏鏡説を固持してきた。
(③については、同時に、古墳時代開始の年代を3世紀半ばまで引き上げる努力もなされている)


そこに衝撃を与えたのが、「景初四年」の銘をもつ鏡の出土である。
「景初」は「三年」で「正始」に改元した。
「景初四年」は存在しないはずなのである。

さらに、追い討ちをかけたのが、今回の主人公「青龍三年」鏡である(これは三角縁神獣鏡ではなく、方格規矩四神鏡)。

「青龍三年」は魏の年号で、西暦235年に当たる。
しかし、卑弥呼が朝貢する238年or239年よりも前なのである。


卑弥呼が「銅鏡百枚」を下賜された時、数年前に製作された鏡が入れられたのか?
それが許されるなら、三角縁神獣鏡を特鋳しなくてもよかったのではないか?
(まさか、鏡の在庫を掻き集めても100枚用意できなかった、というわけでもあるまい)

魏の年号があるから卑弥呼・邪馬台国と関係する、と言えるのかどうか、怪しくなってきたのだ。
そうなると「景初三年」の鏡も、三角縁神獣鏡全体も…ということになってくる。


三角縁神獣鏡が卑弥呼がもらった鏡でないとすると、弥生遺跡から出土している前漢鏡・後漢鏡がそれにとって代わることになる。
「前漢鏡・後漢鏡」というのは、いろんな形式の鏡の総称だ。

故:佐原真氏は、中国王朝が周辺国に下賜する場合、そんなに多種多様なものを掻き集めてきて揃えたりしない、単一・一様なものを与えるのだ(だから「銅鏡百枚」と言ったときに多種多様な前漢鏡・後漢鏡などではない)みたいなことを発言していた。

しかし、それなら、三角縁神獣鏡ではない「青龍三年」鏡はどうなるのだろうか?
(三角縁神獣鏡も、実際には様々なパターンがあって、決して単一の形式ではない。だから、そもそも佐原発言はズルイのだが…)


「青龍三年」鏡は、まったく同じものが京都府京丹後市と大阪府高槻市から出土している(もう1面、出土地不明のものがあるというが、未詳)。
先の理屈からすると、畿内→丹後へと鏡が伝播したとなろう。

だが、丹後というのは、当時は中国大陸・朝鮮半島に面した文化の玄関口だった。
卑弥呼・邪馬台国とは別にこの鏡を入手して、丹後→畿内(大阪府高槻市)へと伝播した可能性も高いだろう。


そういう関心をもって、「青龍三年」鏡を見に行った。

この鏡は「方格規矩四神鏡」という名である。
中央に四角の囲みがある。これが「方格」。
方格や周縁から出ている「T」「L」「V」形の文様が「規矩」(大工道具のコンパスと曲尺)に見立てられている(TLV鏡とも呼んだ)。
そして、四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)が配されている。


この「方格規矩四神鏡」は、「三角縁神獣鏡」とは異なり、中国からも多数出土している。
また、やはり「三角縁神獣鏡」とは異なり、弥生時代の遺跡から多く出土し、九州に多い。


実際に見てみると、錆や磨耗のせいで鮮明には見えなかった。
しかし、じっくりと観察できた。

2016年1月5日火曜日

離宮八幡宮 -守護不入の石柱をもとめて-

2016年最初の「遊び」は、初詣である。
それも近場の神社に行けばイベント性が薄れる。
まだ行ったことがない神社の中で「どこがいいかな~」と考えていた。


ところで、昨年12月に「守護不入地」について、ちょっと調べていた。
室町時代、幕府権力を背景に守護が勢力を伸ばし、任国を領地のように支配し、「守護大名」とよばれるようになった。
しかし、そんな守護でも介入できない土地があった。
幕府が規制するわけである。
それが「守護不入地」(あるいは「守護使不入地」)だ。


Wikipediaで「守護使不入」を見ると、そこに「守護使不入」の石柱の写真が載っている。
兵庫県姫路市の如意輪寺のものだ。
なぜか、それに惹かれてしまい、これを見に行きたくなった。
が、他にも「守護不入」「守護使不入」の石柱や碑はないのだろうかと調べてみた。

すると、京都府大山崎町の離宮八幡宮にあることがわかった。(こういうのを検出できるのがネットのすごいところだ)

離宮八幡宮には行ったことがない。
初詣の場所が決まった。
 
  ×    ×    ×


1月2日、大阪で仕事をした後、いつもと違う経路で京都へ。
JR山崎駅で下車する。

JRは「山崎」、阪急は「大山崎」で、駅名が違うのが、紛らわしくいというか、区別しやすくて便利というか。


元旦ではないが、てっきり初詣客で駅と駅前がごった返しているかと思っていた。
神社までの道筋に屋台が並んでいるかと思っていた。
ところが、何にもなし。

その程度の知名度・人気度なのか、離宮八幡宮は。
ジャンクな焼きそばでも食べようかと思っていたが、お預けになってしまった。


東へ向かい、数十メートル緩い坂道を下る。
広い道と交差する、その角っこに、いきなり離宮八幡宮の門。
その「こじんまり感」に驚いた。

しかし、この門は脇門。やはり正門から入るのがスジだろう。

ぐるっと廻って、正門から入る。

境内は思っていたよりも狭い。
明治以降、社域が縮小されたというが、それでも歴史に名のしれた神社なのだから、もっと堂々たる境内かと思っていた。

境内にはテントが設置されていた。
おそらく昨日の元旦には御神酒の振る舞いなどがあったのか?

現在、淀川の対岸に石清水八幡宮が鎮座しているが、もともと「石清水八幡宮」と呼ばれていたのは、ここだった。

大安寺の僧行教が山崎淀川の港)で神降山に霊光を見、その地より石清水湧いたのを見た。
そのことを清和天皇に奏上したところ、国家鎮護のため勅命により「石清水八幡宮」が建立された、という

が、その後、なぜか「石清水八幡宮」は淀川の東岸の男山に移された。

西岸のこの地は、もともと嵯峨天皇の「河陽宮」という離宮の跡地でもあったので、「離宮八幡宮」と名が改められた、という。

だったら、「河陽宮」から清水が湧いた、という話になるのが自然だと思うが…
それに、現在の「石清水八幡宮」は「清水」は関係なかったのか。
てっきり、男山に清水が湧いていたのだと思っていたが。
なんだか、狐につままれたような話だ。


受験日本史では、そのような縁起は登場しない。
中世の座の代表例として「大山崎油座」があげられ、離宮八幡宮の神人(じにん)らが油の製造・販売をしていた、ということで登場する。

貞観年間に神官が夢で「長木」(てこを応用した搾油器)を見て、実際に作成荏胡麻(えごま)製造が始まった、という。
貞観年間といえば清和天皇の時代だから、建立された直後のことだ。



「油祖」の像が作られているが、この「油祖」って誰なのか?
搾油器をつくった神官のことなのか?
この像はいつ作られたのか?


本殿に詣でる。

境内にはいくつもの摂社が祀られている。

しかし、目当ての「守護不入」がない。
なんかの情報間違いだったのか?

もう一度、ネット情報を確認する。

「守護不入」の石柱は確かに存在する。
それを紹介しているサイトのとおりに歩くことにする。
ということは、結局、北側の脇門から入りなおすことになる。
(このように、一般の人と逆に回ってしまうのは、わたしの宿命だ)

順を追って見ていく。
「境内案内図」も見当たらない。

灯篭が並んでいる。
一つ一つ文字を読んでいくが、どれも「守護不入」ではない。

こんなに探さなくても、もっと目立つはずなのだ。
「この灯篭が目に入るはず」とサイトに書いてある、その灯篭も見当たらない。
「この神馬の像が目に入るはず」とある像も、ぜんぜん見当たらない。
再び狐につままれたようだ。


ひょっとして!と閃いて、テントの裏側をのぞいてみた。
そしたら、あった! 神馬の像が。

それを向こうの、塀とテントの間の狭い空間を通り抜けていくと、大きな灯篭と「殺生禁断所」の石柱が。

近いぞ!
「殺生禁断所」の石柱の裏手にまわると…
あった! 「守護不」の文字が。

ただでさえ、灯篭と木に挟まれているのに、そこに倉庫とテントがあり、とても見にくいアングルだ。
正面からちゃんと見ることができない。
腕を伸ばしてシャッターを切るのみ。
なので、写真が傾く。

やれやれ。
やっと実見することができた。


しかし、もののサイトによると、この石柱は江戸時代に建てられたものらしい。
「守護」というのは鎌倉・室町時代のもので、江戸時代には存在していない。
大名のことを古風に「中世」と言ってみたのか?

だが、近世権力というのは社寺も支配下においていて、こんな「アジール」は認めないはずだが…
そのあたりの事情を詳しく知りたい。
ネット情報が正しいのかどうかもという検証も含めて、今後勉強していきたい。


帰路につく。
山崎駅のホームからは、対岸の「石清水八幡宮」のある男山が見えている。

数十分ほどの、小さな旅だった。