2015年12月28日月曜日

三輪山へ(3) 登拝(前編)


狭井神社に到着した。

ここで三輪山に登る申し込みをする。
「登拝」と表現するらしい。

まず申込書に記入。

申込書を提出すると、白い襷(たすき)と地図を渡され、注意事項の説明を受ける。
水分補給のために水を飲む以外、山中で飲食は禁じられている。
また、写真撮影も禁じられている。
その他、登山道以外の場所に立ち入ることも禁止だ。

登拝口。(ここまでは撮影してもよい)

脇に置いてある御幣で各自でお祓いをする。
竹の杖が置いてあり、せっかくなので借りて行く。

行程は約4キロ。
標高差は400メートル足らず。
往復で約2~3時間という。
10時45分ころ、スタートした。

入ってすぐに階段状の坂を登ると、しばらくは平坦な道である。
よく掃かれていて、清浄な感じのする道だ。

まもなく少し下り、谷を渡る。

登山道には緊急時の所在確認のための標柱が9本あるようで、それが丁度よい目印になる。
谷を渡るところが「①丸太橋」だ。
谷の右岸をゆるやかに登っていく。
「②中の沢」
細い道だ。

森は、杉・檜と照葉樹林の混成林で特別ではないが、何といってもゴミが一つも落ちていないところが、そこらへんの山と違う。
伐採・植林その他、人工的なものが極めて少ないのも美しい。
(若干の伐採や登山道整備などのための手は加えられている)


「③三光の滝」につく。
滝行の行場で、着替えたり休憩したりするための小屋がある。

上からで大きな話し声・笑い声が聞こえてきた。
白い装束を着た女性と道の整備をしているオジサンとが話していて、聞こえてるのは女のほうのバカ大い声だ。
どうやら、常連の信者のようだ。
「入山心得」の第一条に
「三輪山は神体山です。敬虔な気持ちでの登拝を願います。」
とあるのに、この女の大きな笑い声で清浄な雰囲気な破壊された。

その女とすれ違いたくなかったので、小屋の中を見学し、通り過ぎるのを待った。
下って行った女は、登ってくる別の白装束の女性(やはり常連のようだ)と出会い、またそこで大きな声で会話しだした。
常連になって慣れてしまいすぎて、初心を忘れてしまったのだろう。

尾根の幅広い道を登る。
「④水呑台」を通過。
ほとんどジグザグ道ではなく、踊り場のない階段をまっすぐに登っていく感じ。
空は青く晴れて、空気は冷たく、すがすがしい気分。
ゆっくりと神聖な気分を感じていたいのと早く登頂したいのと、心が複雑だ。

「⑤中津いわくら」というところ。
文字通り、磐座があり、注連縄をして祀ってある。
ここで、後続の女性に追いつかれ、抜かされてしまった。

この中津磐座がそうなのかどうかわからないが、三輪山を取り巻くように磐があるという。
登拝道以外は禁足地だから立ち入ることはできないが、特別の許可をもらった人が調査したのだろう。

(つづく)

2015年12月26日土曜日

三輪山へ(2) 狭井神社への道

大神神社を訪れた。
目的は三輪山に登ることだ。
大神神社の摂社である狭井神社で申し込み手続きを受け付けているという。

このことが奇異だった。
三輪山が大神神社の御神体ならば、大神神社そのものが管轄してもよさそうなのに。

祈祷殿の前を通る。

拝殿とは別に祈祷殿があるのが、よくわからない。
平成9年に出来たという。
祈祷殿の左(北)に「くすりの道」の入口があり、そこへ。

今向かっている狭井神社は「薬の神様」らしい。
で、「くすりの道」というのは薬業関係者が奉納した薬木・薬草が植えられている…という
だが、山に登ることに気が急いていて、よく見ていなかった。

長い参道。
気が急く。



狭井神社へ行く途中に、磐座社がある。

少彦名(スクナヒコナ)神を祭っている。
しかし、少彦名神はもともと大和の神ではなく、後から「習合」したものだ。
磐座は、本来は、旧石器・縄文時代以来の信仰の対象だったのだ。

岩を信仰の対象とする心性は理解できるものの、特別に大きいわけでも変わった形をしているわけでもない何の変哲もない岩だ。
どこにでもありそうな岩だが、この岩がどういう経緯で信仰の対象となったのか、興味深いところだ。

さらに進むと、茶屋があり(まだ開店していない)、狭井神社の鳥居がある。


そこをくぐると、左手に池がある。
鎮女池という。

そして、市杵嶋姫神社がある。

九州宗像の神だ(後、弁財天と習合)

池のほとりに、なぜか三島由紀夫の碑がある。

昭和41年(1966年)、三島由紀夫が古神道研究のため、大神神社を訪れ、社務所に三泊参籠した。
そして、三輪山に登拝した。
その時の感銘から色紙に「清明」と書いたという。

後日、三島は大神神社に次のような感慨を寄せた。


大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。


又、お山に登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな感がありました。東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ近寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、洵(まこと)にはかり知れぬ神のお恵みであったと思います。


山の辺の道、杉の舞、雅楽もそれぞれ忘れがたく、又、御神職が、日夜、清らかに真摯に神に仕へておいでになる御生活を目のあたりにしまして、感銘洵に深きものがございました。





三島氏の作品で大神神社のことを書いているのは「奔馬」らしい。
『豊穣の海』の第2部だ。
大昔、タイのアルンラーチャワラーラーム寺を訪れた後、それに舞台とした第3部「暁の寺」を読んだ覚えがあるが、第2部以降には進まなかった。(「暁の寺」すら、どんな内容か忘れた)
もう一度、三島の『豊穣の海』にチャレンジしていないといけない。

このように、旅から読書へ、読書から旅へ、とつながるところが楽しい。


(つづく)

















(つづく)

2015年12月25日金曜日

三輪山へ(1) 大神神社

三輪山に行った。
三輪山は大神神社の御神体である。
大神神社には、拝殿だけあって本殿がない。それは、山が御神体だからだ、という。

御神体である三輪山は禁足地であり、立ち入ることはできない、と聞いていた。
原始のままの山が残っていると思っていた。

しかし、大神神社で申し込めば登ることができる、という。
それを知ったのは数年前。
それ以来、ずっと気になっていたのだが、今回やっと実現することにした。

    ×    ×    ×

京都から近鉄電車。
発車のとき、アナウンスも音楽も何もなしで黙ってスーっと動き出す。
ここが近鉄電車の嫌いなところ。

天理駅でJRに乗り継ぐ。
しかし、天理駅で降りても、JRへの乗り換え口がわからない。
連絡通路か何かがあるはずだと思っていたが、どこにも「JR」の文字がない。
(どこかに書いてあったのかもしれないが、それでは駄目だ。誰でもが目に付くように書かなければ)
乗り換える駅を間違えたか?と心配になった。
改札の駅員に訊いて分かったが、どこかに「JRはこちら」的な表示をしろよ。
こういうところが近鉄電車の嫌いなところ。

   ×    ×    ×

JR三輪駅へ。
三輪山はすぐそこ。

三輪山はもっと離れて大鳥居と一緒に眺めると、きれいな円錐形をしていることがわかるが、ここは近すぎるようだ。


いったん三輪山と反対側(西側)に出て、小さな商店街を抜けて、踏切を渡る。
参道と車道に分かれる。
もちろん、参道を行く。



まもなく「二の鳥居」。

「一の鳥居」はどこなのか?
JRで来た者は「一の鳥居」をくぐれない。

さらに参道を歩いていく。

大神神社は三輪山を御神体とするが、祭神は「大物主大神」である。
正式には「倭大物主櫛瓺魂命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)」というらしい。
「瓺(みかま)」という字は、神社でもらったパンフでは「瓦」と「镸」が左右逆だ。
こんな字、はじめて見た。
調べると、「甕」と同じことらしい。(wikipediaでは「甕」と書いている)

祓戸神社、手水舎を過ぎて、拝殿の手前へ。

大物主神は、大国主神と同一とされ、大国主神は大己貴神(大穴牟遅神)と同一とされる。
さらに、大国主神は「大国(オオクニ)」を「ダイコク」と音読みして大黒天と同一市される。
しかし、元はそれぞれ別々の神だったはずだ。
大国主神は出雲、大物主神は大和の土着の神だ。

その大物主の神話は幾つかある。

まず、崇神天皇の頃、疫病が流行し、多くの人が死んだ。
そして、天皇の夢に大物主神が現れ、
「疫病を流行させたのは自分の意志である。オオタタネコ(意富多多泥古/大田田根子)に自分を祭らせよ」
と託宣した。
人を遣わして捜すと、河内の美努村(茅渟県の陶邑)にオオタネコがいた。
そこで彼に祭祀をさせた。
『古事記』では、このオオタネコが三輪君・鴨君の祖だ

わたしの父祖の地は京都の西賀茂という所で、鴨君(賀茂氏)ゆかりの地だ。
わたしの遠い先祖とどこかでつながっているのかもしれない。

つづく

2015年12月22日火曜日

12月のナメコ採り ~雲取山へ~

12月14日(月)、plant.labの東岳志さんと山に行った。
10時に出町柳発の京都バスに乗る。


東さんは忙しい日々が続いた後なので軽めの山がいいと。
それで、出発も遅め。
行き先もバスに乗ってから考える、というルーズなもの。
「ぶらり山歩き」なのだ。


こういう無計画な山歩きをすると、厳格な人からお叱りを受ける。
「そんなことだから遭難するんだ。迷惑だ」
と。
そういうことを言う人たちに言いたい。
「うるさいよ」
山に慣れた二人にとっては、街中を散歩するのと大して変わらないのだ。


さて、行き先は雲取山と決まった。
花背高原前で下車。


二年前に積雪期に来たぶりだ。
天気もばっちり。
スキー場跡のススキが美しい。



スキー場跡の横を歩いていく。




途中の食堂跡の建物は、前回はあったのに、消滅していた。
わたしの0歳の時の記憶がある建物だったが。



最初の登り:寺山峠には30分で着いてしまう。


いっぷくする。

見渡せば、日当たりと風通しのよいナラ林。

こういうところ、11月だったら、ナメコがありそうだな~
今はもう遅いだろうけど…


…と思って、ふと見たら、ナメコがある!

12月も半ばになって、まだナメコがあるとは。
もちろん、古くなっているものも多い。

だが、「まだまだ大丈夫」というのも、それなりにある。

「まさにこれから」というものすら、少なくない。

歩いていくと、いくらでもある。
ちょうど「ゆるい山歩き」を求めていたので、ちょうどいい。
東さんと、こっちの木からあっちの木へ、という具合に、ナメコを求める。

わたしは11月に大量のナメコを採って、存分に楽しんだので、まずは東さんに好きなだけ採らせてあげる。
東さんも他人からナメコをもらっておられたようだが、
「今年は自分では採れないとあきらめていた」
のだそうである

東さんも「もう十分」というくらい採った後で、良いのがあったら、わたしもいただくことにした。

それにしても、京都(市街地)からアクセスがよい所で、こんなに遅い時期に、大量のナメコが採集できるとは。
来年から、ここへ来よう。
(なんて事をブログに書いてしまうと、荒らされてしまうのだが)


ヒラタケもあったが、まだ小さかった。



さて、キノコを採りながら、尾根上の道を歩いた。



13:00、雲取峠に着いた。

京都府立大のワンゲル部の小屋がある。
水場の上にトイレが作ってある。


13:20、雲取山の山頂。

バスを降りてから2時間弱だ。
帰りのバスは17時半すぎなので、時間があまりすぎる。
飯を食べ、紅茶を淹れてもらい、ゆっくりする。

日差しがやわらかく、風もなく、気持ちのいい空間と時間だ。
東さんはハンモックを持ってきていて、それをベンチ代わりにして腰掛ける。
(そのハンモックの写真を撮るのを忘れていた)


二の沢へと下る。

途中、立命館大の小屋がある。

こちらはトイレと水場の位置関係に問題はなかった。


その後、一の沢を登り、寺山峠に戻ってくる。
たしか、15時半前後だったと思う。
このまま下山してもよいが、そうするとバスまで時間をもてあますことになる。
なので、「もうちょっと歩こう」と、尾根を南下していった。
旧花背峠→天狗杉→花背峠と歩くつもり。

この尾根でも、またナメコはあった。
しかし、もういらない。


どんどん歩いていって、尾根が広くて平坦になっている場所があった。
「こういう場所は、昔なら山寺が建つような所だ」
と言った。
と、標識があり、「寺山」と書いてあった。

なるほど、寺があったから寺山なのか。
「寺山峠」という峠があるのだから、近くに「寺山」があるのは当然で、「寺山」という以上、「寺」があったというのも当たり前だ。


で、何という寺で、いつ頃まであった寺なのか、と気になって、帰宅後、金久昌業『北山の峠(上)』を見てみた。
しかし、金久氏も御存知ないようだった(氏は寺山峠はとりあげているが、寺山そのものは眼中にないようだ)。

ずんずん歩いていって、16時15分、旧花背峠。

ここで林道をまたいで、再び登り。
東さんは「なまっていて、足のふんばりが効かない」と言っていた。
睡眠不足も影響しているのだろう。
わたしは絶好調。


広くてなだらかな丘のような頂部に登っていく。
10分ほどで天狗杉に到着。

わたしはここは初めてだ。
花背峠のすぐ裏(西側)。
こんなところがあるのも知らなかった。

名前になっている杉はこれだろうか。

頂部から少しずれた場所に行くと、京都市内が見渡せた。
大文字山もわかった。

この後、花背峠に下り、車道を歩いて鞍馬方面へ向かう。
途中で京都バスが追いついてくるだろう。

「京都バスが来たら乗ろう」と言っていたが、結局、鞍馬寺までバスに追いつかれなかった。

叡山電車で出町柳に帰る。
東さんとは初めて一緒に山歩きをした。
わたしより10歳以上若いが、知識も豊富で、いろいろと教わることも多い。
楽しかった。